番組の紹介。
7月21日の放送。
NHKスペシャル「“ともに、生きる” 〜障害者殺傷事件 2年の記録〜」
番組の概要をホームページから。
【模原市の津久井やまゆり園で、重度の知的障害者19人が殺害され、27人が重軽傷を負った事件から7月26日で2年になる。「意思疎通できない障害者は不幸しかもたらさない」。植松聖被告が語った動機は社会に大きな衝撃を与えた。
いま、植松被告に直接向き合うことで、事件を乗り越えようとしている人たちが相次いでいる。重度の知的障害のある娘を育ててきた学者や、福祉を志す女子学生など・・・。それぞれが植松被告と、接見や手紙のやりとりをしながら事件と向き合おうとしている。
さらに、事件が福祉の現場に突きつけた重い課題を乗り越えようと、実際に行動を起こし始めた人たちもいる。NHKでは、やまゆり園の入所者や家族を事件直後から取材。“見えにくかった”障害者の意思を丹念にくみ取り、本人が望む日常生活を送れるようにしようと、新たな取り組みを始めている。
“戦後最悪の大量殺傷事件”の教訓をどう受け止め、未来につないでいけばよいのか。被害者や家族、そして事件と向き合った人たちの2年を記録し、きれい事ではない本当の意味での共生とは何か、考えていきたい。】
実際にこの植松のように行動してしまう人はいないのでしょうが、
植松と似たような考えを持っている人は大勢いるのだと思います。
(SNS等で植松の考えに共鳴し、賛同した意見を表明している人もいると番組では話していました)
そのような人がいることを想定したうえで、
私たちが発信しなければいけないのは、
引用した記事にあるように、きれいごとではない説明をしていく必要もあるのではないかと考えています。
そもそも植松はどのような考えをもっていたのでしょうか。
重度の知的障害でコミュニケーションが取れない人は、「心失者」、
つまりこのような人は、人としての心をもっていない人と、捉えていたのです。
心がないから人間ではない、そのような人を保護する必要はない、
もっと言えば、いなくていいという論理なのです。
番組では、意思表明ができないような人においても、きちんとその人を観察していれば、
嬉しかったり、悲しかったりする心の動きがわかる、ということを何人かの人を紹介して説明していました。
実際にダウン症候群をもつ父親は、
「なぜ断定的に心がない人と言えるのか」と憤りの言葉を番組で言っていました。
それはそうでしょう。
実際にきちんと適切な対応をし、
そしてつぶさに観察していけば心の動きはわかる場合が大きいと私も思うからです。
しかしそもそも心がない状態においてでさえ、家族が思う心は強いものです。
なぜなら私たちは亡くなった人でさえ「遺体」という言い方をします、
「死体」ではなく、「遺体」です。
亡くなっても、ただ物体として見るのではなく、その一個人として敬う見方をしていきます。
2年前の事件で亡くなった家族の想いは、相当であったはずです。
確か植松は殺した家族には申し訳ないとは言っていたような気がします(本当にそう思っているかは甚だ疑問ですが…)。
しかし国としてはそのような人を保護すべきではないという考えをもっているようなのです。
そのような考え方しかできない人と、
ノーマライゼーションの思想を持っている数多くのリハスタッフでは、
考え方に大きな差があります。
ゆえに植松のような考え方をしている人に、命の大切さを教えても、話は平行線です。
ではどのように話していけばいいのでしょうか。
ブログ管理者にも明快な答えはありません。
ただあえて全く不十分な答えでいいのであるなら、このように話すかもしれません。
健常な人は今は健康で楽しく生きているかもしれない、
しかし何かの拍子で事故に遭ったり、急な病気に合うことは可能性としては0ではありません。
絶対健康な状態が続くという保証は誰もがもっていないのです。
そうであるなら、
誰もが重度な障害をもつ可能性があります。
その時に周りが生きていても無駄であるような環境であれば、
絶対その人は不幸になるに決まっています。
誰もがそんな不幸な生き方はしたくないはずです。
重度な障害をもっている方をきちんと国が保護してくれる仕組みであれば、
私たちがいつそのような状態になっても安心だと言えることができます。
しかし、ここで反論があるでしょう。
国のお金には限りがある、
全てそのような人に多くの保護を与えてしまっては、財政的にもたない、というものです。
ブログ管理者の反論としては、
だからこそ政治があるのだ、というものです。
どのところまで支援するのか、そして財政的な問題も含めて、
一定程度の線引きをしていくのです。
相模原事件からもう2年、
植松の問いに、私たちはどう返すのか、更に考え続けています。