2013年08月01日

医療と教育の同時提供

リハビリテーション歩みシリーズ、
引用・参考文献は「リハビリテーションの歩み その源流とこれから」。

青年・成人の時代2
(68〜74ページ)
また無理やり要約です。

1947年に児童福祉法公布、
この施策には孤児・浮浪児対策が中心だったのですが、
高木氏の尽力で肢体不自由児施設も取り入れられることになります。
1950年に身体障害者福祉法が施行、
この法律のマイナス面として、その定義・範囲が曖昧であったことです、
その後様々な関係者の運動により、
いくつかの内部障害が追加されてきました。
1952年には高木氏の尽力で作られた整肢療護園が復興(東京大空襲でほぼ全壊していた)します、
そしてまた、その整肢療護園の中に小学校の出張学級として特殊学級2クラス設置されます
(これは高木氏が目指していた医療と教育の同時提供が実現したことを意味していました)。
1961年に国民皆保険制度が実現します。
(もう目?にタコができるかもしれませんが、再度述べます、
つたない要約ですので、興味がある方はこの著書を是非とも買って読んでください)


医療と教育の同時提供、この実現に高木氏は奮闘しました、
障害をもってうまれた子どもたちに、
ただ狭義の医療としての提供だけでなく、
社会で生きていける事までの教育を行う、
これがまさに日本のリハビリテーション草創期に形作られ、
著者、上田敏氏が唱えた「全人間的復権」の理念につながっていくものでした。

そのこともあり、他の医療分野と比較して、
小児だけでなく他のリハビリテーションにおいても「教育」の要素が非常に高い医療になっています、
特に高齢者では生活の仕方によって心身機能は変化していくことが多いです。
ゆえに心身機能が低下しないように、どのような生活を送るべきなのか、
患者さん(家族)が理解しやすいように、
また、やってみようと思わせるように、
うまい具合に指導していく必要があります。
そのことをきちんと行う事で、患者さんが地域で安全・安心に暮らせることにつながっていくのです。
posted by リハ技士 at 15:12| 山形 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | リハビリテーションの歩み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月29日

青年・成人の時代1

リハビリテーション歩みシリーズ、
引用・参考文献は「リハビリテーションの歩み その源流とこれから」。

青年・成人の時代1
(53〜67ページ)
また無理やりの要約です。

戦時中は、戦傷兵のリハビリテーションが中心でした、
切断が多く、義肢の製作や訓練に重点がおかれます。
戦後初期は脊髄性小児麻痺・脳性麻痺・骨関節疾患・肢切断など、
多彩な疾患を対象にリハを行うようになります。
その後、徐々に労働災害による脊髄損傷の患者が増加していきます。
1960年の日本初めてのリハ専門書は各論が、
脊髄損傷・切断・ポリオ・脳性麻痺・関節リウマチとなっていて、
脳卒中については触れられていませんでした。
(しつこい!と言われそうですがまた言いましょう。
この要約は本当につたない要約ですので、
興味を持った方は是非とも買って直に読んでください)

身体障害分野のリハビリテーションが急速に進歩したのは、
残念ながら戦争の影響が大きいと聞いています、
国がその戦傷兵をまず兵役に戻したい、
戻せなくても何か他の産業で働かせたい、
そのような意志が働いていました。
当時の要請として国家権力が少なくとも整形分野のリハの進歩を後押ししたのは間違いないようです。
あと著書を読んで驚いたのは、私の母校がでていたこと
私のリハ専門学校の母校は、国立療養所犀潟病院に附属するリハ学院でした。
この犀潟病院、戦傷病兵の精神疾患を治療・リハビリする場所でした。
(うーん、そうだったのか!!、母校なのに全然知りませんでした)

そして1960年の初めてのリハの専門書、
そこに脳卒中が入っていない事が代表的ですが、
時代によって大きくリハの対象は変化していくことがわかってきます。
現在のリハの対象疾患も今後大きく変化していくでしょう、
例えば20〜30年後にはips細胞がリハの対象疾患を変えていくかもしれません、
特に注目なのが脊髄損傷に対してです。
ここでちゃっかりCM。
今回9月7日に山形テレサで、
全国脊髄損傷者連合会 山形県支部創立40周年事業として、
再生医療の今、「一歩先の未来へ」ということで、
慶應義塾大学・東北大学・和歌山県立医科大学の各教授が講演してくれます。
現時点での脊髄損傷におけるips細胞の現状と課題が見える講演になるでしょう。

すみません、脱線してしまいました。
とにかく、年々リハに求められることは変化していきます、
その要請に私たちは敏感になる必要があるでしょう。
posted by リハ技士 at 19:04| 山形 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | リハビリテーションの歩み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月26日

肢体不自由児の療育

リハビリテーションの歩みシリーズ、
引用・参考文献は「リハビリテーションの歩み その源流とこれから」

肢体不自由児の療育
(40〜52ページ)
また無理やりに要約していきます。
高木氏は1916年から肢体不自由児の実態調査を行いますが、
障害者に偏見の強かった時代、その調査は遅々と進みませんでした。
しかし粘り強く接するうちに受け入れるところもでてきて、その実態が明らかになります。
1918年には肢体不自由児には治療・教育、そして「職能」が授けられる施設が必要であると提起しますが、
しかし当時、労働者に味方する主義ととらえられ、私服刑事に付きまとわれることもありました。
1922年にドイツに留学、
その時にクリュッペルハイムという、高木氏が肢体不自由児に必要だと描いていた施設に出会い、
感銘をうけます。
1925年に肢節不全児福利会(日本肢体不自由児協会の全身)を設立、
その時に「隠す勿れ」運動の提唱を始めます。
1929年には肢節不完児などの呼称を改め、「肢体不自由児」という新しい名称を提唱します。
そして1942年、高木氏の目指した製肢療護園がとうとう開園します、
しかし、その製肢療護園も東京大空襲でほとんど全焼してしまいます。
(しつこいほど何度も言うようですが、
つたない要約です、
是非とも少しでも興味がある方は本を買ってください)



高木氏の理念が書かれていた石碑に碑文が書かれていた写真を、
他のホームページからみつけました。
その碑文は高木氏の肢体不自由児に対する情熱がひしひしと感じさせられる名文です、
引用させてください。
『たとえ肢体に不自由があるも、次の社会を担って我々の将来を決しなければならない児童達に、くもりのない魂と希望をもたせ、その天稟をのばさせなければならない。それには児童を一人格として尊重しながら、先づ不自由な個処の克服につとめ、その個性と能力とに応じて育成し、以って彼等が将来自主的に社会の一員としての責任を果たすことが出来るように、吾人は全力を傾盡しらければならない』
古い文章なので、やや読みづらいとは思いますが、
なんとなく感じてもらう事はできたのではないかと思われます。
こう書かれていることは、
その当時、その肢体に不自由がある者に対しての偏見が強く、
家族もその存在を知られないように家の中に隠してしまうという状況が長く続いていたということです。
しかし高木氏はその状況をなんとか克服しようと「隠す勿れ運動」で立ちあがっていきます。
そして要約をみてわかるように、
大変な状況をくぐりつつも一歩一歩少しずつ子どもたちのために構築している姿を見ていると、
私たちもその背中を見ながら、そこから何か学ばなければいけない、
そう強く思わすものがあります。

次回は、「小児」から「青年・成人」のリハへ、です。
posted by リハ技士 at 19:16| 山形 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | リハビリテーションの歩み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月25日

東大リハビリテーション部開設

リハビリテーションの歩みシリーズ、
引用文献は、「リハビリテーションの歩み その源流とこれから」

東京大学病院リハビリテーション部
(26〜35ページ)
また今回も無理やり要約しましょう。
著者は東大病院にリハビリテーション診療部門を作りたいと思っていました。
1962年暮れにリハビリテーションの機器を買う予算が入ることになり、
次の年の2月にその機器を使用できる場所を確保したいために、
著者は中央診療部の当時副部長の樫田医師に押しかけ、相談したところ、
1954年当時からその中央診療部門にリハビリテーションを含める計画があったことを聞きます。
著者の後押しもあり樫田医師はすぐ動きだし、予算を獲得します。
そしてその予算もすぐとれ、工事が開始。
人材も確保しようと、
理学療法では福屋靖子氏、少し遅れて作業療法は寺山久美子氏・鎌倉矩子氏がくることになります。
そしてとうとう1963年7月1日、開所することとなります。
(何度も言うようですが、つたない要約です、
またかなり興味深い話も省いています、
例えば最初の東大リハ部門での作業療法は……………、
うーん、やっぱり買って確かめてください)


さて1954年当時からリハビリテーションの必要性を考えていた樫田医師の先見性、
そしてそれを後押しした著者の情熱、
このことが東大にリハビリテーション診療部門を作ることができた大要因であることは間違いないでしょう。
そしてこの診療部門が出来たことで、
最先端のリハビリテーション医療を行い、全国のリハビリテーション施設から模範となる組織となったのです、
またそこがリハビリテーションを学ぶ医師もしくは医師の卵の教育の機会の場となったのです。

ブログ管理者は作業療法士なので、
福屋氏は知らないのですが、
寺山氏と鎌倉氏は作業療法士にとってはビッグネームです。
ブログ管理者が学生から若手時代に読んだ本では、
2人の名前はよく出ていました。
その後に矢谷令子氏(作業療法士、この方もビッグネーム)の名前もでてきていたことだけを見ても、
東大リハビリテーション部が日本のリハビリテーションを引っ張ってきたことがわかってきます。

次回はさかのぼって、高木憲次氏の肢体不自由児の療育を報告していきます。
posted by リハ技士 at 15:34| 山形 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | リハビリテーションの歩み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月24日

リハ学校(清瀬)の開校とPT・OT資格制度

リハビリテーションの歩みシリーズ、
引用・参考文献は、「リハビリテーションの歩み、その源流とこれから」。

今回はリハ学校(清瀬)の開校とPT・OT資格制度
(14〜25ページ)
また無理やり13行で要約しましょう、
大村潤四郎という当時、厚生省医務局国立療養所課長だった人がリハを開校するにあたって大きな役割を果たします。
1962年にその大村が書いた中間報告で、
リハ学校開校の計画を提案したことが決定的となり、
1963年度に当時4000万という多額の予算が承認されます。
開校後、専門教育は外国からきた理学療法士・作業療法士で行われたために、
授業・レポート・実習全てが英語という状況でした。
その後に資格制度を創設するために調査会が開かれ、
その時にPT・OTを日本語にどのように訳すかで議論になります。
その後1964年に理学療法士・作業療法士法案を提出しようとしますが、
名称独占にするのか、業務独占までいくのかで議論は紛糾、
結局法案提出は見送られ、やっと1年後に名称独占で法案提出し、その年に交付されます。
そして1966年に第1回理学療法士・作業療法士国家試験が行われます。
(前回も書いていますが、
上記の要約はブログ管理者のつたない要約です、
もっとこの著書の内容は興味深いところが多々あります、
是非とも興味がある方は買って直に読んでください)

清瀬、
ブログ管理者もこの学校を受験したことがあります、
一番歴史がある学校だということ、
当時としてはかなりレベルが高い学校である事、
東京にあること、ということで、
だめもとで受けて見ました。
東京なのに自然あふれるところという印象と、
面接をした教官らしき人がやけに明るかったという印象が強くあります。
(いいとこでした…)
結果は二次試験まではいきましたが、結局不合格、
ブログ管理者は清瀬出身と聞いただけで、
その人を羨望のまなざし目で見てしまいます。

さて最初の専門教育は英語というのは、すごすぎます。
ブログ管理者が学生時代に当時を知るベテランのOTに話を聞いたことがあります、
例えば解剖学・骨の名前、筋の名前などは全て英語で覚えていたので、
日本語名を言われてもピンとこないことがあると聞いたことがあります。
うーん、やはり、すごすぎます。
(ブログ管理者の英語は、関係代名詞のところであきらめましたもうやだ〜(悲しい顔))

次回は、東京大学リハビリテーション部オープンです。
posted by リハ技士 at 20:33| 山形 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | リハビリテーションの歩み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする