2013年09月19日

被爆ろう者 最後の語り部

だいぶ時期はずれるのですが、
今日から3回にわたって障害者が語る原爆を報告していきます。
(これは新聞で企画したシリーズものではありません、
毎日新聞2回と読売新聞1回です)

『1945年8月6日の朝、当時11歳だった吉上さんは自宅のある広島市中心部から北東に約30キロ離れた同県吉田町(現・安芸高田市)の寺に、県立ろう学校の生徒約120人と疎開していた。農作業中、大きな揺れを感じ驚いた。「広島の方角にある山の後ろから大きなきのこ雲が立ち上がっていた」
3日後、皮膚が黒こげになった人や、焼けただれた赤ん坊を抱いた家族連れなどが続々と歩いてやってきた。「何が起こったのか。家族は無事だろうか」。皆不安にかられた。
 病院のベッドや薬も不足しており、水をあげることしかできず、次々と亡くなっていった。山の上で焼いた遺体の臭いは今も覚えている。ラジオでニュースを聞いたろう学校の先生から、原爆が落ちたことを知らされた。
 5日後に迎えに来た姉と馬車で自宅へ戻った。その間、川に浮かんだ遺体もたくさん見た。自宅は焼けたが、両親は近くの別宅に避難し無事だった。しかし、父親と姉は被曝後、食事が取れなくなって衰え、約1カ月後に相次いで死去。母も9年後に亡くなった。医師に説明を求めたが「手話通訳もなく、筆談でのやりとりは難しかった」と悔やむ。
 92年、ろう学校OBから、ろう者の慰霊碑の建立計画が持ち上がる。吉上さんに託されたが、「どこから手をつけていいかわからなかった」。
 被爆者健康手帳の取得者や同窓会名簿を基に、手話通訳者の協力も受けながら一軒一軒訪ね歩いた。カンパを集める一方で、安否の確認と被爆体験や生活状況の聞き取りを進めた。知ったのは、被爆体験をうまく伝えられず、証明する人も見つけられず、手帳の取得をあきらめるなど、被曝ろう者の苦難の道だった。
 手帳取得の支援などと並行しながら、OBや関係者の協力で2003年に碑は完成。以降、毎年8月6日に慰霊祭を開いている。
 一連の調査で、被爆当日に卒業生21人が死亡したことが判明。今年5月には、日にちは分からないが47人の死亡が新たに分かり、確認したろう者の被爆死没者は計161人になった。
 平和記念公園の原爆慰霊碑に奉納される原爆死没者名簿に「亡くなったろう者もきちんと載せてあげたい」。吉上さんはそんな思いで、ろう者の被爆実態を調べ、語り部を続ける。かつては10人ほどいたろう者の語り部も高齢化。6日の慰霊祭に参加したのは吉上さんだけだったが、腕を振り手話で力強く語った。
 「自分1人になったが、体の動く限り平和の尊さを訴えていきたい」』
{毎日新聞(東京)・朝刊 2013年8月7日 記事引用}

原発再稼働、当ブログでは反対の意見をもっています、
反対の論陣を張るためにも原発再稼働賛成派の本は今まで7〜8冊は読んできました。
納得はできないものの、それなりの理屈はあるのだなぁと客観的に見ることはできました。
しかしよくアメリカの人達が原発を投下したことの正当性を訴えることについては、
理由を聞いても全く納得しませんし、
その理由を恥ずかしながら客観的に聞くことはできません(感情的になってしまいます)。
アメリカ側の意見は、
「原爆の使用によってこそ、この泥沼化した戦争は終結し、よって1億玉砕の運命にあった日本国民も、また我らが勇敢なる将兵も併せ、膨大な数の尊い人命が救われたのである」というものです。
この主張は到底受けいれられないばかりか、
言い方が下品だとは思いますが、上記の意見に対しては虫唾がはしるとしか言いようがありません。
無差別に20万以上の人を虐殺にした、ホロコーストに匹敵する行い、なのです。
そのような原爆投下をアメリカは上記のように正当化し、
公式にそれもいまだに全く謝罪をしていないのです。
そのような傲慢で自己勝手な理屈・態度には感情的になるな、と言われても難しいのです。

最近オリバー・ストーンが監督した「もう一つのアメリカ史」(10本)というドキュメンタリー、
その中の1本に原爆投下が充てられています、
その中には当時の政権下の中で原爆を使用することに反対も多く、
原爆を使用しなくても日本を降伏させることは可能だったということが描かれているとのことでした。
ではなぜ原爆投下をしたのでしょうか。
本当のアメリカの狙いは、
当時のソ連に対して軍事的に圧倒的優位に立とうとしたこと、
そして原爆の人体実験をしたかったということが言われています。
これはその後のアメリカの動き・体制を見ていれば容易に推理できるものです。

あの原爆投下を絶対に肯定してはいけない、強く強くそう思います。


さて、話を戻しましょう。
このような広島と長崎の原爆投下で、
どのような状況であったか、どのように被爆者は苦しんでいったのか、
そのことをリアルに体験し、そのことを語る人たちは年々減っていきます。
もう原爆投下から68年という年月、
もう語れる人はこの数年でなお一層激減していくことでしょう。
その中でろう者というハンディキャップがあるにもかかわらず、
あの時の実態を伝えようと必死になって語ってくれる吉上さんは貴重な存在です。
それも障害をもつ(耳が聞こえない)人が被爆の中で、
どのような苦難があったのかを知ることができます。

年月を経ていく、というのは自然なことではありますが、残酷なことでもあります
広島・長崎の語り部を聞く人達も必ず徐々に減っていき、いつかはいなくなります。
あとは映像でしか聞くことができなくなるでしょう、
しかし生身の人間だからこそ、聞いていて気持ちが大きく揺り動かされることがあるのです。

来年の原爆の日、是非とも広島・長崎に行って、
語り部の声を多くの人に聞いてもらいたい、そう思います。
posted by リハ技士 at 16:21| 山形 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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