2013年03月09日

余命半年宣告 「復興へやり残したことがある」

『約2時間の昼休みが終わり、午後2時から始まった午後の部の診療。淡いピンク色のじゅうたんが敷かれた院内を、看護師がせわしなく動き回り、待合室にいた数人の患者を次々に診察室へ案内し始める。
 「今日はどうしましたか」。白い椅子に深く腰掛けた老医師は、優しくささやくような声で患者に話しかけると、患者の病状や悩みにじっくり耳を傾けた。
 震災から2カ月後の昨年5月、大腸がんに侵され、肝臓と肺にも転移していることが判明。今年5月末には医師から「余命半年」の宣告を受けた。
 宣告を受けた時と比べて体重は激減。診察の機会は日を追うごとに少なくなり、別の医師に任せることも多くなった。しかし、今でも週1回、数時間のペースで診療を続けており、本人が診察する時間帯は、患者がにわかに増える。
 「今日は、亨平先生に診てもらえる」。”噂”を聞きつけた住民が集まってくる。分娩は11月以降、行っていないが、つい最近も、妊婦に「ここで産みたかった」と泣かれた。
 数週間に1回程度は、片道約60キロの福島市にある病院に向かい、抗がん剤治療を受ける。診療中に、ポロシャツの胸ポケットに抗ガン剤入りの容器を忍ばせ、伸びた管の先の針から絶えず体内に薬を投与する事もある。足には冷えを防ぐための靴下を3枚履き、薬の副作用で時折、どっとでてくる汗を首にかけたタオルでぬぐう。
 痛み、吐き気、倦怠感…。患者を診ていると、ふと「私の方がつらいんじゃないか」「重症人が健康人を診ているのではないか」と思う事もある。だが、患者には心配をかけたくない。診療では、「悟られないように」と平穏を装う。
 震災後もがん発覚後も南相馬市にとどまり診療を続けた。「人間である以上、つらいなんて言っていられない。震災で亡くなった人を思えば、私はまだまし。今もその覚悟は変わっていない。
しかし、病魔は容赦なく老体に襲いかかる。
………(中略)………。
 同月中旬にインターネットのホームページで自分の現状を訴え、”私の最後のお願い”として後継者を募った。「この地域でも、子どもたちに賢く生きれば安全に生きられることを教えてあげられる人間味のある医者に引き継いでほしい」
 訴えから約3カ月後の11月、願いは届き、来年から新たな男性医師(43)を常勤として迎えることが決まった。震災以降自らに課した「南相馬の医療を守る」という役割は一段落し、一つの肩の荷が下りた。』
{産経新聞(東京)・朝刊 2012年12月25日 記事引用}

亨平医師、今年1月22日で永眠されました。
享年74歳、
最後の最後まで南相馬のことを考え続けた医師でした。
NHKでも特集されていたようです(ブログ管理者は見過ごしていました)。
その番組を紹介してあるホームページに強烈に亨平医師の言葉が載っていました。

「明日は生きていられる、がんの末期だろうとなんだろうと、だから(患者を)救える」

なぜこれほどまでに、亨平医師は頑張れたのでしょうか。
亨平医師は震災後、南相馬市の遺体安置所で死亡確認の作業にあたっていました、
そのなかで無念の死にいたった遺体をたくさん見てきました。
亨平医師はその地域の人の無念の思いを感じ、
せめて自分が出来る、新しく生まれる子どもたちを守ろうとしたのです。
そして自分がガンとわかった時点で、この地域の人のために身をささげようと考えたのでした。

しかし亨平医師も限られた命、
亨平医師の後を引き継ぎ、南相馬医療を守るために、
ホームページでの悲痛な訴え、
ブログ管理者も心うたれました。
その思いがしっかりと届き、
新しい医師が1月4日に就任しました、
亨平医師の思いは現在でも継続していると言っていいでしょう。

将来の地域は子どもたちが作っていく、そして今の大人たちを支えていく、
亨平医師はその子どもたちを守りました、
亨平医師は力尽きましたが、
その守られた子どもたちが南相馬を引き継いで、地域を守っていく、
そう強く願わざるをえません。

この亨平医師のドキュメンタリー、
明後日のNHKの番組(夕方の時間帯)、あと民放でも特集するようです。
皆さんもチェックしてください。
posted by リハ技士 at 14:25| 山形 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 震災・原発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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