2012年06月20日

不滅のプロジェクト 〜核燃料サイクルの道程〜

ETV特集 不滅のプロジェクト 〜核燃料サイクルの道程〜
NHK 6月17日の番組


日本で原子力発電の導入が検討され始めたのは、
占領から独立をはたして間もなくのことでした。
1954年国会で初の原子力予算が承認されました。
その2年後、原子力行政を担う事を目的に科学技術庁が設立されます。
科学技術庁には伊原義徳ら若手官僚が集められ、
日本のエネルギーを支える柱として原子力政策の立案が命じられました。
リーダーである原子力政策課長に任命されたのは島村武久、
後に原子力局長を歴任し、今日の核燃料サイクルの礎を築いた人物です。
科学技術庁で島村武久たちが戦後日本のエネルギー政策の目標として定めたのが核燃料サイクルでした。
当時それはまさに夢の技術でした。
核燃料サイクルはウランなどを核燃料に加工し増殖炉で使います。
使用済み核燃料は再処理工場に送って処理を施し、再び燃料として使います
こうして燃料をリサイクルし続ければ、
計算上はおよそ1000年にわたってエネルギーとして利用し続けることができるというものです。
島村たちが核燃料サイクルを目指したのには理由がありました、
1941年アメリカ・イギリスなどはアジア太平洋地域に勢力を伸ばす日本に経済封鎖でけん制しました。
石油が輸入できなくなった日本は追い詰められ、戦争へと突入していきました。
そうした苦い経験からあるだけに安定的な資源エネルギーの確保は戦後の日本にとって切実な課題でした。
1956年6月、科学技術庁の島村たちは核燃料サイクルを検討する最初の会議を開きました。
その議事録が残されています。
会議で話題の中心になったのは核燃料サイクルにトリウムという物質を利用する案でした。
当時世界各地で新たなトリウムの鉱床が発見されていました。
島村たちは資源の安定的な確保の面から日本に最も適しているのはトリウムだと考えたのです。
しかしアメリカに留学した島村の下で働いていた伊原さんたち若手官僚が注目していたのは、トリウムではない別の物質でした。
伊原さんが派遣されたアルフォンヌ国立研究所では、世界最先端のプルトニウム研究が行われていました。
当時緊急用の高速増殖炉EBR-1で実験中に1つの発見がありました。
プルトニウムをウランと混ぜて核分裂させると増殖というプルトニウムが増える現象が起きることが確認されたのです。
高速増殖炉の中で飛んでいる中性子がプルトニウムにぶつかると核分裂をおこします、
そこから飛び出した中性子が燃料に混ぜたウランにぶつかると新たにプルトニウムに生まれ変わります。
この連鎖が繰り返される事でウランがプルトニウムに生まれ変わる増殖が起こり、
前よりも多くのプルトニウムが得られるのです。
しかしプルトニウムには負の側面があります。
長崎に投下された原子爆弾、その材料はプルトニウムでした。
アメリカが莫大な予算をつぎ込みプルトニウムの研究を始めたのは、
もともと核兵器を開発することが目的でした。
当時被爆国である日本の国民の間では激しい反核運動が巻き起こっていました。
それでも伊原さんたちは、科学技術庁の官僚は軍事利用できないトリウムではなく、
あえて増殖という他の物質にはない利点をもつプルトニウムを選んだのです。
伊原さんたちの判断では原爆に使われていたプルトニウムだからこそ逆に、
研究対象にすべきという科学者たちの考えが影響していました、
日本の物理学の第一人者、武谷三男の言葉です。
「原爆で殺された人びとの霊のためにも日本人の手で原子力の研究を進め、人を殺す原子力研究は日本人の手で絶対に行わない。
日本人は原子爆弾を自らの身に受けた世界で唯一の被害者であるから、原子力に関する限り日本人は最もこれを行う権利を持っている」
核燃料サイクルを政治家も指示しました。
1954年には国の予算2億3500万円が原子力の建造のためにつけられました。
原子力予算は年々増加、
4年後には初年度の30倍を超える77億円にまで達しました。
核燃料サイクルは国策として位置づけられました。
1956年には日本原子力研究所が設立され、全国から科学者が集められました。
核燃料サイクルのかなめとして,
まずプルトニウムを燃料とする高速増殖炉の開発がはじまりました。
開発にあたり参考にされたのはアメリカの高速増殖炉EBR-1でした。
当初科学技術庁の官僚たちはアメリカの科学をそのまま導入すれば、
容易に高速増殖炉は作れると考えていました。
しかし研究開始の直前、アメリカのEBR-1で炉心溶融事故が起きました。
高速増殖炉はいったん制御がきかなくなると暴走し炉心溶融に至る致命的な欠陥があることがわかったのです。
高速増殖炉では炉心を冷やす冷却材として、液体のナトリウムを使用します。
プルトニウムを増殖させるために連鎖反応を起こすには中性子を減速させないことが重要になります。
冷却材に水などを用いると中性子が減速してしまい連鎖反応を起こすことができません。
これに対しナトリウムは中性子を減速させないため連鎖反応を起こすことができます。
しかしナトリウムは水に触れると化学反応を起こして爆発するというデリケートな性質をもっていました。
ナトリウムが漏れたり、中に空気が入らないよう配管には高い気密性が必要です。
そのための基礎研究を積み重ねなければ実用に至らない事がわかってきたのです。
アメリカの技術を導入すれば良いというもくろみは敗れました、
アメリカは技術的に困難が多い高速増殖炉に見切りをつけ、新たな形式の原子炉に主軸を移し始めました。
軽水炉です。
軽水炉は冷却材として水を用いるため、増殖はできませんが設計が単純で費用が安く抑えられました。
アメリカの軽水炉メーカーは日本の電子力メーカーは、日本の電力会社に売り込みをかけてきました。
完成までをメーカーが一括して請け負い、
電力会社はキーを受け取るだけですぐに運転できるターンキー契約が売り物でした。
独自の原子力技術を持たない日本の電力会社にとって、これは魅力的でした。
各地に軽水炉原発が次々に導入されていくことになります。
軽水炉ブームとなっても科学技術庁の島村たちは
高速増殖炉を中心とする核燃料サイクルをあきらめたわけではありませんでした。
島村たちは軽水炉原発から出る使用済み核燃料を核燃料サイクルの資源として再利用することにしたのです。
軽水炉の使用済み燃料には少量のプルトニウムが含まれています。
再処理によってプルトニウムを取り出せば高速増殖炉の燃料として利用することができます。
使用済み核燃料をごみとして捨てるのではなく、
核燃料サイクルの資源として有効利用しようというのが島村たちの考えでした。
島村たちは電力会社に使用済み核燃料は再処理し、プルトニウムを取り出すようにもとめました。
しかしこの頃、電力会社は導入したての軽水炉で燃料棒が破損するなどのトラブルが相次ぎ、それどころではありませんでした。
使用済み燃料の再処理に消極的な電力会社、
しかし国はなんとかして電力会社を核燃料サイクルに導こうとしていました。
国は予算を軽水炉の運転のためではなく、核燃料サイクルの確立のために重点的に投じていくことになりました。
1973年に起きたオイルショック、
石油に頼る火力発電は将来が危ぶまれるようになります。
プルトニウムをリサイクルして使う核燃料サイクルに国民の期待が集まる中、
1977年緊急用の高速増殖炉「常陽」が初臨界に成功、
茨城県東海村には使用済み核燃料からプルトニウムを取り出すための再処理施設が建設されました。
核燃料サイクルはエネルギーの将来を担う国家プロジェクトとして加速していこうとしていました。

ところが意外なところから日本の核燃料サイクルにマッタがかかります。
きっかけは中国やインドが相次いでプルトニウムを利用した核実験に成功したことでした。
アメリカ大統領のジミー・カーターは核の拡散を懸念、
アメリカ政府は核不拡散法という国内法を盾に日本に対して核燃料サイクル計画の中止を求めてきました。
要するに核燃料サイクルは日本が核武装するのではないかと危険視したのでした。

この頃、島村たちとは異なる目的から、日本は核燃料サイクルを進めるべきだと考える人々が現れました。
外務省の官僚たちです。
隣の中国が核保有国になる中、日本の安全保障の観点からプルトニウムを用いた核燃料サイクルに注目していました。
外務省の官僚たちは核燃料サイクルによってプルトニウムを取り出せることに注目、
この技術を開発することにより日本がいつでも核武装できる体制を整えておこうと考えたのです。
当時の総理大臣、佐藤栄作のもとにも核武装を検討していた人がいました。
内閣調査室の調査官たちでした。
専門家を呼んで極秘に核武装の研究がすすめられました。
日本の官僚たちが極秘で進めていた核武装の検討、
実はこの動きをアメリカはごく初期のころから把握していました。
アメリカは諜報機関CIAを通じて各国の原子力開発の実態を調査、1970年以降、最も警戒された国は日本でした。
アメリカは日本が2〜3年間で核武装できる能力をもっているとみていました。
その理由として日本は核兵器の製造に必要な科学技術や知識をすでに持っていることを挙げています。
さらに日本の指導者が核兵器の保有という判断を下す可能性が大いにあると分析、
日本は核武装する決断を1980年代の初めにも下すかもしれないと予測していました、
1977年、カーター大統領は国際核燃料サイクル評価会議・INFCE会議を開催、
各国の専門家を集め、
核燃料サイクルを進めることが核の拡散につながりかねないことを検証しようとしました。
(つまりアメリカは核燃料サイクルをあきらめさせようと画策しました)
この頃アメリカは高速増殖炉には技術的な課題が多く、
コストがかかりすぎるとして撤退を表明。
核燃料サイクルを支持する理由はなくなっていました。
INFCE会議は61回にわたって開催されました。
日本は外交官だけでなく多くの科学者を送り込み、核燃料サイクルの必要性を繰り返し訴えました。
会議開始から2年が過ぎた1980年1月、結論をまとめる段階にきて意外な方向に進み始めました。
アメリカ以外の各国は核燃料サイクルを民間にさせようとする思惑が重なったことによって、
会議では核不拡散と平和利用の研究は両立しうるという結論が出され、
日本は核燃料サイクルを継続できることになりました。
アメリカの壁を乗り越えた伊原さんたち科学技術庁の官僚は、
是が非でも核燃料サイクルを成功させなければ考えました。

核燃料サイクルを実現する上で避けて通れない課題がありました。
サイクルの循環の中で生じるゴミ、高レベル放射性廃棄物の処理です。
岐阜県瑞浪市、この町の地下で一つの研究がすすめられています。
ここは高レベル放射性廃棄物を地下で処分する方法を研究しています。
研究は深さ300mの地下で行われています、
使用済み燃料からプルトニウムを抽出する際、不要な物質が取り除かれます。
その中には半減期が数万年という放射性物質もあり、
高レベル性放射性廃棄物として処分しなければなりません。
高レベル放射性廃棄物は細かく砕いた後、ガラスに溶かして固められます。
それを最終処分場で放射能が安全なレベルになるまで保管します。
いったんでた放射性廃棄物はものによっては何万年にもわたって管理を続けなければならないのです。
この施設は将来、最終処分場をつくる時に備え、技術を開発するのが目的です。
しかし最終処分場を日本のどこに作るかはまだ全く決まっていません。
これまで国内10か所以上で最終処分場の建設が検討されました。
しかしいずれも地元住民の反対を受け、建設の見通しはたっていません。
高レベル放射性廃棄物の処分が問題となり始めたのは、1990年代以降。
廃棄物の処分をだれが受け持つのか、
国・電力会社いずれも重荷を一人で背負いたくありませんでした。
1990年日本で稼働中の原発は40基に増えていました。
それに伴い再処理される使用済み核燃料が増え、プルトニウムがたまり始めてきました。
事態の打開のためには高速増殖炉の運転を一刻も早く始めることが必要でした。
期待を一身に集めたのは高速増殖炉「もんじゅ」です。
1985年に建設がはじまった「もんじゅ」、実際に発電し実用化に向け実績を積んでいくという重要な任務をおっていた炉でした。
「もんじゅ」の建設には莫大な費用がかかりました。
建設費は年をおうごとに増え続け、当初の見込みの3500億円を上回りました。
「もんじゅ」の建設は日本のメーカー4社が分担して請け負っていました。
建設に当たり次々に生じる新たな技術的課題、その解決のためコストがかさんでいきました。
島村たちは電力会社にもできるだけ早く軽水炉から高速増殖炉に切り替えることを求めました。
「もんじゅ」と同じ型の高速増殖炉を作ればコストは下がると考えたからです。
しかし電力会社はこの政策に危機感を感じます。
建設費の高い「もんじゅ」と同じ型の高速増殖炉の切り替えは経営を圧迫すると判断、
国のすすめる「もんじゅ」よりコストの安い高速増殖炉を自ら開発しようとしました。
日本原子力発電の社内では本当にコストの安い高速増殖炉を作ることができるのか、
不安の声が上がりました。
電力会社は高速増殖炉の早期実用化は不可能と判断、国に政策の見直しを求めました。
国は渋々ながら「もんじゅ」に続く高速増殖炉の建設を2030年まで先伸ばしにすると決めました。

1993年青森県六ケ所村に使用済み核燃料の再処理工場の建設が始まりました。
各地の原発に溜まり始める使用済み核燃料を処理するため、
電力会社が共同出資して建設することにしたのです。
しかし六ヶ所再処理工場は試験運転の段階からトラブルが相次ぎます。
高レベルの放射性廃液が漏れ、作業員が被ばくする事故などがおき、現在も本格稼働に至っていません。
電力会社は使用済み核燃料の再処理をイギリスとフランスの工場に委託することで凌ごうとしました。
それでも海外で取り出されたプルトニウムは日本に送り返されてきたのです。
高速増殖炉が実用化されないうちに再処理を続けた結果、
使うあてがないプルトニウムがたまり続けました。
半減期2万年の猛毒プルトニウム、使わなければこのうえもなく厄介なゴミです、
1990年代半ばまでに、その総量は20トンに達しました。
プルトニウムが宝となるか、厄介者となるかは「もんじゅ」の成功如何にかかわることになったのです。
1995年8月29日、高速増殖炉「もんじゅ」は,5800億円をかけて完成、
出力5%という小さな規模でしたが初送電に成功しました、
4ヶ月後「もんじゅ」は原子力出力を45%にまで上げる試験を実施、
フル稼働に向け準備が着々と進んでいました、
その直後のことでした、
12月8日、万全の対策をたてたはずの冷却材のナトリウムが配管から漏れる事件が発生、
しばらくして「もんじゅ」を運転する動力炉核燃料事業団が事故を撮影したビデオを隠蔽していたことが発覚しました。
一連の出来事により「もんじゅ」の運転に反対する声があがります、
国民の間に核燃料サイクルに対する不信が芽生えたのです。
事故後「もんじゅ」は一度も本格稼働していません、
しかし「もんじゅ」の事故後も国は核燃料サイクルの根本的見直しを行ってきませんでした。
たまり続けるプルトニウムをどう消費すればいいのか、
問題が深刻化する中、国はある打開策に注目しました、
それがプルサーマルです。
既存の軽水炉で使うウラン燃料にプルトニウムを混ぜて燃やすという方法です、
(プルトニウムを少しでも減らそうという苦肉の策でした)
プルサーマルは2009年から国内4か所で始まりました、
その4か所の原子炉、その一つが東京電力福島第一原発の3号機でした、
去年3月、福島第一原発3号機では炉心溶融と水素爆発が起きました。
事故後、原発周辺の住宅地からプルトニウムが検出されました.

今年スタートから55年たって初めて核燃料サイクルが見直しの対象となりました。
原子力委員会では民間の有識者を交え、今後の選択肢を検討しています。
科学技術庁から計画を引き継いだ文部科学省は今後も
高速増殖炉の開発を軸に核燃料サイクル計画をすすめていくとしています。
研究開発に関わってきた委員は核燃料サイクを今後も継続すべきだと主張しています。
専門家以外から選出された委員は核燃料サイクルを見直すべきだと主張しています。
現在出されているのは3つの案、
核燃料サイクルをこのまま続けていく、全て中止する、サイクルを続けながら別の方法も探っていく、
この夏には具体的な方針が定められる予定です。

日本がこの核燃利用サイクルに魅せられた理由はよくわかります,
確かに日本は資源がない国です,
その資源がないことで日本は戦争を拡大させたとも言えるでしょう.
(当然ですがそれで日本の戦争を正当化できるものではありません)
1000年以上もエネルギーで心配する事がないとすれば,
より安定的な国の運営が出来るでしょう.
しかしこれまでの歴史を振り返ると,もう結果は出ているのではないでしょうか.
あまりにもお粗末な結果としか言いようがありません.
核燃料サイクルは破綻していると私は考えてしまいます.
しかしある番組に出ていた科学者は,
このプロジェクトは10年,20年のスケールで考えては駄目だ,
100年規模でプロジェクトを検討しなければいけないのだと言っていました.
もう私にはその言葉は詐欺師のようにしか聞こえません.
その科学者は現在の核燃料サイクルの状況は知りつつ,
もっと実績を積めば………,ということでしょう.
しかしそれには原発を動かし続ける必要があります,
そしてプルトニウムは溜まっていきます,
当然高レベル放射線廃棄物もたまっていきます.
最終処分場も決まらないまま,原発の安全もまだ安心できない状態.
大地震がこの30年で9割がた起きるという予測の状況では,
いかに夢のエネルギーだとはいえ,かなりリスクが高いエネルギーと言わざるをえません.

私はすぐに脱原発派ですが,
人によっては時間をかけて脱原発派の人もいるでしょう.
夏に国として核燃料サイクルをどのようにするかが決められますが,
もし今までの継続だとしたら,政府はずっと原発を続けていくのだという事になります.
どのようなことになるかは,今後も皆さんも注目してニュースを見続けてください.
(このブログは番組のナレーションから多くを引用しています,ご了承ください)
posted by リハ技士 at 12:30| 山形 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 番組紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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